【vol.1961】
こんにちは!
カウンセリングオフィス
プログレスのむかいゆかです。
昨日は11時には
ベッドに入ったのですが
今日は13時近くまで
泥のように眠っていました…(汗)。
昨日のブログで訴えていた
左首から肩にかけての突っ張りや痛みも
随分と緩和されて
昨日よりは大分楽になりました。
休息(睡眠)の力、侮れません!
起きてからは
自宅がてんやわんやな状態になっていたので
ひとりで黙々と掃除をしたりして
片付けをしていたのですが
掃除機をかけながら
ふと、昨日の告別式で
父が参列者に向けた挨拶で
(父の)妹たちや親戚からも
「ママ」と呼ばれて
慕われていました。
と言ったことが思い出されました。
実は、私自身はこの部分に
かなりの引っ掛かりを感じたのです。
恐らく、父としては
母が「ママ」と呼ばれていることで
彼女がたくさんの人に
「可愛がってもらった」
「よくしてもらえていた」
というイイ意味で
挨拶文に含めたのでしょうが
みんなに「ママ」と呼ばれたことで
母は引き受けなくてもイイ役割まで
引き受けざるを得なかったのでは?
と思ったりもしたのです。
母方の親戚たちは
母のことは「ママ」とは呼ばずに
「よっち」(母の愛称)と呼んでいましたが
父方の祖父母も母のことを「ママ」と呼び
父の妹たち(私の伯母)も
父の伯父/伯母たちまでも
母のことを「ママ」と呼んでいたんですよね。
本来であれば
母のことを「ママ」と呼べる立場は
私と妹しかいないはずなのに…。
これって
母のことを「ひとりの女性/人間」として
見ていたのではなく
みんなの面倒をみる「お母さん役」として
母のことを見ていて
それが無意識のうちに呼び方に
現れていたんじゃないか?と思うわけです。
母は「バカ」がつくほど真面目で
責任感が強い人間で
周囲から
そういった役割を期待されたら
その期待には応えなければならない
…と思い込んでいたタイプ。
だから
周りから「ママ」と呼ばれていたことで
私たち家族以外の人に対しても
良妻賢母的な存在であらねばと
自分を押し殺していたのかも知れないなぁ
…と今さらながらに思ったりしたわけです。
そんなことを考えていたら
まだ実家で暮らしをしていた頃の
確かこの時期に
ボソッと溢した母の愚痴が
思い出されました。
我が家は本家なので
お正月の2日もしくは3日に
親戚一同が集まって
飲み食いするのですが
その準備を
一手に引き受けていたのが
母だったんですよね。
それは毎年恒例となった
母の憂うつの種で
その愚痴をこぼしながら
「ママ、ママ」って
あんたたちのママじゃないんだって!
と言ったのを覚えてます。
他人が自分のことをどう呼ぶか?って
かなり重要だと思うんですよね。
というのも
重要なアイデンティティの一部に
なり得るから。
母は典型的な昭和の従順な女性で
(少なくともそう振る舞っていた)
「ママ」と呼ばれるのが嫌だったけれども
「NO」とは言えなかったがために
誰に対しても
母親的に振る舞う役割から
降りることができずに
望んでもいなかったアイデンティティが
母の一部になってしまっていたのでしょう。
たかが呼び名、されど呼び名。
今さらながらに
そんなことに気づいたところで
時すでに遅しなんですが
人の「呼び方」は
その人のアイデンティティに与える
影響の大きさを鑑みて
どういった人に対しても
どんな風に呼ぶのか?については
常に意識していきたいと思った次第です。
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